イデツ工芸
牛革バッグの製造・通信販売 / イデツ工芸
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イデツ工芸 誕生秘話

皆さん♥初めてお目にかかります。
僕はイデツ工芸のアイドル・キャラクター
『イデツ♥コーゲイ君』です。

今日は、僕のデザインの元になった「No.62」のバッグを作った、
お父さんの「出津豊吉」さんが、何故?芋畑の真中で【イデツ工芸】を始めたのか?
と言うお話をするネン!

茨城の大地主だった、出津家

茨城の大地主だった、出津家

出津家は本来、田畑がいっぱいある農家でした。
昭和17年、第2次世界大戦中にここ、上太田の地に生を受けました。
ご両親の清寿さん、やまさんは大正生まれ。

豊吉さんが生まれる前に、清寿さんは騎兵として戦地へ赴く事になりました。
おじいさん、おばあさん、父親の小さい弟や妹達、赤ちゃんの豊吉さん。
井戸もなく、子供の着物も買って貰えず、やまさんは苦労の連続でした。
豊吉さんが5才になった頃、やっと戦地から帰って来た父親は、
戦地で博打を覚えて来たから、たまりません。

元々働き者の清寿ヤンは、畑の仕事が無くなると、仲間と一緒にサイコロ賭博!
(鶴田浩二、ケンさんの世界デンナ!?)

破天荒な清寿ヤンと、貧しさの日々

破天荒な清寿ヤンと、貧しさの日々

 

5才の豊吉さんは、急に現れた男、清寿さんを父親とも思わず、
知らない男が家に居るとしか解らない。
なつかない息子にイライラしては、暴力をふるう父親。

清寿ヤンは、博打の資金に畑や田んぼを売り、入り口の畑まで売ってしまいます。
それをやまさんが、必死に働いて買い戻すと又、売る!!
その繰り返しで、売る物もなくなると、寝ている布団まで剥いで売る始末。

その頃のお風呂は、貧しさ故のドラムカン風呂。
長男の豊吉さんは、小学生の頃から坂の下まで300m以上も歩いて下り、
汲んだ井戸水の入った天秤棒を担いで、坂を登って運ぶ大変な作業を1日に何回もやり、肩にはコブの様なマメが出来ました。

たまに博打で勝って、買ったお風呂を無理やり取り外し、それを頭から冠って、
目だけギョロギョロさせて歩いていた清寿ヤンの姿は、
村中で知らない人がいない程の有名な話になってしまいました。

やまさんは、僅かなお金を馬フンの中に隠し、家族の生活を守ったそうです。

 

人生を一変させた、足のケガ

弟や妹が生まれても、相変わらずの生活。
実家から、お金を借りるしかなかったやまさん。その為、実家の忙しい時に豊吉さんは、農業の手伝いに行きました。

まだ中学生だった豊吉さんが疲れても、うるさいおばあさんは、「おメェの家には、金をいっぱい貸してあるんだ!休まネェで働け!働け!」と、休む事を許しませんでした。(実の孫なのにこのバァさんは可愛くないのかネェ!?)

疲れ果てた体で働き続けた豊吉さんは、右足に「栗のイガ」を刺してしまい、それが原因で、骨髄炎になってしまいました。
3年以上の入院生活で、なんとか直ったものの、右足が固まって曲がらなくなってしまったのです。

 

 

バッグづくりと、新たな家族

バッグづくりと、新たな家族

 

【昭和36年】
農業が出来なくなった豊吉さんは19歳で、東京墨田区のバッグ職人の家に住み込みで、働く事になりました。

【昭和43年】
25歳で独立。メーカーの下請けになる。

【昭和60年】
43歳で、幸子さんと結婚。

♥幸子さんは、昭和28年に墨田区で誕生。
父親は、浅草の皮革問屋で働いており、家の中には牛皮が、山の様に積んであって、
小さい幸子さんは、それによじ登って遊んでいたんだヨン!
中学生の頃から宝塚ファン!独身時代の勤務先は、日本橋。東京のド真ン中。
写真を見たり、宝塚のユーチューブを見たりするのが楽しみです。

牛革の触感とキレイな色の感覚はピカイチです。
豊富な人生経験から出て来る面白い文章が得意技で「おさちこ」のペンネームで本を出版した幸子さんが、このホームページの「トップページ」「コンセプト」「直営店紹介」のページを書きました。ブログもどんなシーンが出て来るか? 楽しみにしててネン!!

【昭和61年】
1人息子の広宣君が誕生!

仕事場の側で、牛革にまみれながら、赤ちゃん時代を過ごしました。
2才になると、おシメをしながら、広宣君は仕事場に顔を出し、お父さんが「ベルト緑(ふち)折り畳機」を使って、バッグの手ひもを100本、200本と折り始めると、側に来てはスイッチをヘコヘコ押し始めるのでした。

忙しくて一緒に遊べないお父さんと、一緒に何かやりたくて、親子2人で楽しそうに仕事をしていました。
おたふく風邪で40度近い熱があっても「ガーガー」する音が始まると、「お仕事チュル!」とフラフラやって来ては、仕事を始めてしまいます。

終るまで、けっして布団に戻ろうとしなかった広宣君は、3才のバブル期に、高島屋の高額な仕事が入って来た時も、バッグの底ビョウを両手を使って、とても大人には出来ないスピードで付けまくっていたヨン!!

 

 

出津家に忍び寄る不況の嵐とヒラメキ

平成元年→茨城県旭村(現・鉾田市)にある豊吉さんの年老いた両親のいる実家に引っ越しました。
そして、だんだん時代は移り変わり、日本のバッグ業界にも暗い影が……

高級品は海外のブランド。安い中国製と競わされたバッグ職人の工賃は、日に日に安くなる一方。
それでも仕事があるのは良い方。バブルがはじけて他のメーカーは次々と倒産。ほとんどの職人は工事現場のガードマン等に職替えする始末。
安い工賃のバッグを朝から夜中まで造り続けても、やっとの生活。それも平成10年の3月まで。4月から注文はピタリと来なくなりました。

出津家に忍び寄る不況の嵐とヒラメキ

 


貯金でしのいだものの、幸子さんも伸び切った状態では
パートに出る処ではありません。

豊吉さんも、不自由な足では農家の手伝いも出来ない!
どうするのか!?バッグしか出来ない!!

ギリチョンでヒラメイた豊吉さんは手元にある革を使ってバッグを造っては、車で売り歩くようになりました。何軒かの家を回る内に、買ってくれるお客様も出てきました。

そして、村内のお客様から「バッグが作れるんだから、《製造直売》のお店を開いたら良いのに。オーダーも出来るんじゃないの?」と助言を頂きました。
幸い豊吉さんはサンプルも作っていた事も有り、デザインの型起こしも出来ました。
革すき機も購入し、練習を重ねました。革断ちは手断ちで行う。

お店はどうしたのか?→庭に大工さんが建てた、瓦屋根・太い柱の駐車場があったので、それをトタンで囲み、内装を施し、お店にしました。

 

祝 イデツ工芸開店!

祝 イデツ工芸開店!

平成11年5月 イデツ工芸開店
製造業の下請けから個人客への直売に事業形態を変更し、店名をイデツ工芸と命名しました。

初めて作るオーダーは、とても大変でしたが、出来上がったバッグを見たお客様は必ず、「これで良いです。ありがとうございます。」と感謝されます。
普通は店員の方から「ありがとうございます!」なのに。

お客様から感謝することの大切さを教わりました。

この頃、小売りのデザインはまだまだのものが多く、
お客様に手取り足取り教えられながらのイデツ工芸でありました。

 

2代目職人、広宣くんも仲間入り

2代目職人、広宣くんも仲間入り

2代目職人 広宣くん

【平成16年】
広宣君が玉造工業高校を卒業して、本格的に仕事を始めた年ダヨン!

【平成22年】
茨城空港開港 商工会の紹介により、スカイアリーナ店にて販売開始。

【平成25年】
鹿島神宮前の鹿嶋人ギャラリーで販売開始。

【平成28年】
鉾田市ふるさと納税の返礼品として取り扱い開始。

【平成29年】
空のえき そ・ら・ら物産館にて、販売開始。

そして、鉾田市商工会主催のいっぴんマルシェ、水戸芸術館におけるあおぞらクラフトいち、鹿嶋人ギャラリー主催、鹿嶋チェリオにおける出張販売等々、様々なイベントにも参加し、地域の活性化の為にも頑張っているヨン!

広宣くんは、新しい販路を拡大し、お父さんやお母さんと一緒に頑張っているヨン!

 

イデツ♥コーゲイ君、誕生!

No.62

イデツ♥コーゲイ君の原形、No.62バッグ

【平成28年】
ボク イデツ♥コーゲイ君 が、誕生したヨン!!
ポイントカードのスタンプに、バッグの絵を使おうと、お父さんのデザインしたNo.62のバッグを元に、お母さんが、ボクの絵をボールペンで描いてくれたんだヨン!!広宣君がお兄さんなんだ!!
イイダロウ!?ボクとってもうれしいヨン!!

【平成29年】
新しいチラシが出来て、ボクがイデツ工芸のロゴマークになったヨン!!可愛いデショ?ボクのロゴマークが描いてある、新しい紙袋も出来たんだ。カッコイイヨ!

【平成29年5月30日】
新しい紙袋が出来上がったその日に、このホームページの会社、(株)セルクルの渡辺さんと小日向さんが来て、8月からこのホームページが始まったヨン!

ホントに清寿ヤンが、真面目でやさしいお父さんだったら、豊吉さんがバッグを造ることもなかったと想うと、清寿ヤンに感謝ですネン!!

♥おシャレ用に、普段使いに、”牛革バッグ”をもっともっと身近に♥
ボクも、もっともっと成長するヨン!